肖像画

  • 2016.10.24 Monday
  • 11:35

 

 

 

 

 

JUGEMテーマ:古美術・骨董・アンティーク

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きらきら2000年前のエジプトの肖像画

 

 

こちらは、ミイラを囲った木製の棺桶にあった肖像画です

 

 

木の上のテンペラ画を描きワックスを塗ってありました

 

 

 木片は紀元前1世紀の作成でエジプトの古代人の顔を驚くほど現実的に表現しています

 

 

一部の芸術歴史家は、これらの肖像画が人類史上最初のものとしています


 

 

 

 

詳細記事はこちらです
右矢印 青https://www.thevintagenews.com/2016/10/11/mummy-portraits-disturbingly-realistic-wooden-paintings-depict-the-ancient-faces-of-egypt-from-2000-years-ago-2/

 

 

 

 

 

 

 

 

ブショー

  • 2015.11.02 Monday
  • 09:33
JUGEMテーマ:アンティーク版画








きらきらめずらしい Joseph Pierre Buc'hoz ピエール=ジョゼフ・ビュショー の肖像画です


彼は、豊富な資金で編集者として様々な図鑑や本を短期間にたくさん刊行するために調査や研究を怠りしばしば安易に他の本から結果を流用し間違った植物名などでも平気で刊行していました


フランス人植物学者エリティエは、ビュショーに対して怒りをあらわにし、臭く(いかがわしい)臭う花、クコ属のリシウム・フェチダム(Lycium foetidum)をまさに彼の名前からビュショージア「Buchozia」と名前を変えようとしました








 

フランス人肖像画 4

  • 2012.01.30 Monday
  • 08:39


『フランス革命時の60の肖像画コレクション』1800年代 パリ刊行から


ジャン・ポール・マラー(1743年−1793年)

フランス人の革命の指導者(スイス生まれ)で、ジロンド党員の打倒におけるリーダー

昨日のブログ、シャーロット・コーディにより入浴中に風呂で刺殺された本人です


フランス人肖像画 3

  • 2012.01.29 Sunday
  • 09:25




『フランス革命時の60の肖像画コレクション』1800年代 パリ刊行から

マリー=アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン
(1768年-1793年)は、フランス革命において、ジロンド派を擁護し、ジャン=ポール・マラーを暗殺した女性

後世、その美貌から、暗殺の天使と呼ばれたが、
最後は断頭台へと消えたが、その途上の彼女の儚さに恋した男性も多かったという

三大古典詩人の一人、コルネイユの子孫である貧乏貴族の娘として、ノルマンディーに生まれたが、母と死別した13歳のときに修道院に入った。

読書を好み、ルソーなどを読む物静かな女性であったと言われている。


やがて、革命政府により修道院が閉鎖され、シャルロットは叔母のブルトヴィユ夫人のもとに身を寄せた。

革命を過激に推進するジャコバン派を嫌悪し、ジャコバン派との政争に敗れたジロンド派を支持するようになる。

カーン市に滞在中、パリでの抗争に破れ逃亡してきたペティヨンやバルバルーらジロンド派議員との接触の後、フランスのためにマラーの殺害を計画した

1793年7月9日、叔母の家から、パリに単身上京した。

7月13日、人民のために門戸を常に開いていたマラーを訪ね、彼らに対して陰謀がめぐらされていると言って傍に近づいた。

皮膚病を患っていたマラーは、浴槽からそれを聞いていたが、シャルロットが隠し持っていた包丁で心臓を刺され絶命する。


浴槽で入浴中の殺人事件


その場で逮捕され、17日、革命裁判で死刑の判決を受け、その日のうちにギロチンによって処刑されました。

フランス人肖像画 2

  • 2012.01.28 Saturday
  • 09:35


『フランス革命時の60の肖像画コレクション』1800年代 パリ刊行から


マクシミリアン・フランソワマリー・イシド・ロベスピエール
(1758年-1794年)

フランス革命の指導者的存在

ルソーを信奉しつつ質素で真面目な人柄でしたが、
横暴な恐怖政治にはしり、次第に不満が高まり支持基盤である市民階級からの支持を失い、94年7月27日のテルミドール、クーデターにて失脚し、翌日処刑(ギロチン)されました。



フランス人肖像画 1

  • 2012.01.26 Thursday
  • 08:54





マリー・アントワネットとナポレオン・ボナパルトの肖像画です

ドゥプレッシー・ベルトが絵を描き、銅版画を作りました

『フランス革命時の60の肖像画コレクション』1800年代 パリ刊行

ある踊り子の一生

  • 2011.01.08 Saturday
  • 08:11
踊り子 セリーヌ・モンタランドの生涯


セリーヌ・モンタランド(1843年-1891年)はパリのパレ・ロワイヤル(パリ国立劇場)でスペインのフラメンコの服装をまとい少女ダンサーとして10歳のときにデビューしました。その後、ロシアの王子とのスキャンダルで舞台を追われました。

しかし、彼女はニューヨークのコメディオペラの舞台で復帰し、パリでは真剣なドラマの舞台で復帰を果たしました。
しかし、その後は、ヨーロッパの貴族の高名なコーティザン(高級娼婦)となりました。

1883年の売れっ子娼婦紹介ガイドブックの中では、セリーヌは、「パリのかわいい女性」と賞されています。
として「ウズラと同じくらいに太っていて、大理石ほど色が白くかつてないほどのきめ細かい素肌、そして非常に堅く漆黒の黒い髪毛の女優、彼女ほどの美人にはお目にかかることはできない」
と記録にあります。
彼女は、1891年に48歳で亡くなりました。




若かりし日、パレ・ロワイヤルの舞台から




1883年刊行 『売れっ子娼婦紹介ガイドブック』より

Frances Howard  フランセス・ハワード

  • 2010.11.07 Sunday
  • 09:59
今日登場する悪書は、昨日、殺人の罪で絞死刑になったアン・ターナー女の雇い主で、その殺人を計画した主犯者です。

彼女は、身分ある女性のためアンとは、格段の裁判結果となったのです。





フランセス・ハワード
サマセット領主(1590年 -1632年)の伯爵夫人

フランセスは、悪名高い英国の貴族でした。

エセックスの領主と14歳で結婚し、フランセスは、真の愛人ロバート・カー(サマセットの領主)と結婚することができるように、結婚を廃棄しようとして数年を過ごしました。

しかし結婚の取り消しは、トマス・オーバーベリィ卿によって猛烈に反対しじゃまをしました。

しかし、ついに1613年には、オーバーベリィ卿の突然死によって、フランセスが夫と離婚しカーと再婚することが認めらてました。

が、2年後に実は、ハワードの殺人が明らかになり、共犯者の秘書アン・ターナーによって毒殺されたのでした。

1615年の裁判では、フランセスとロバートは、刑務所に送られたが、7年後、1622年にジェームズ1世の恩赦よって許されて刑務所から出ることができました。

一般人のアンは、即絞死刑となったのですが、貴族であるフランセスは、恩赦によって何事もなく余生を過ごしたのでした・・・。



見るこちらの銅版画の肖像画は、夫毒殺後に愛するサマセット領主と一緒に何事もなく幸せそうに二人で描かれています・・・・。

Mistris Turner 情婦ターナー夫人

  • 2010.11.06 Saturday
  • 22:38


アン・ターナー
アン・ターナー(1576年-1615年)は、別名「レディー・イン・ウェイティング(貴族のある役割を持った女性」として、
フランセス・ハワードの秘書でした。

ターナー夫人は、「悪い評判の家」(売春宿)を経営し、表社会の貴族、薬剤師などの闇の業界中に広く顔を知られていました。

雇い主のフランセス・ハワードが1613年にオーバーベリィ卿を殺害することを決定した時、アンは、彼女のために薬剤師から毒(ヒ素と水銀)を調達しました。

彼女の高貴な身分の共犯者(フランセス・ハワード)は容赦で逃げましたが、アンのみが、裁判官に「売春婦、売春宿の主人、魔女、カトリック教徒、重罪人および殺害者」と呼ばれ、1615年にタイバーンで絞死刑になりました。


Elizabeth Chudleigh エリザベス・チャドリー公爵夫人

  • 2010.11.05 Friday
  • 10:42
見る本日は、悪名高き公爵夫人女の詐欺師人生です。



キングストン公爵夫人エリザベス・チャドリー
(1720年 -1788年)
彼女は、悪名高い有名な英国の貴族でした。
1744年には、彼女は貧しい海軍士官オーガスタス・ハーベイと結婚しましたが、結婚を法廷で公表するまで秘密にしておきました。

しかしながら、ハーベイがブリストルの領主になった時、彼女は急に彼との結婚を自慢し始めました。

同時に、エリザベスはキングストン公爵の情婦になり、1769年に彼と結婚までしました。

公爵が1773年に死んだ時、エリザベスはその特権をすべて継承しました。

公爵の甥が彼女の重婚をつきとめ、法廷で有罪を告げられてもなおこの「悪運強き奔放な」女性は、どうにか彼の財産を備え、ヨーロッパへ逃れ、パリとローマでぜいたくの生活を送り続けました。

Ann Yearsley アン・イェースリー

  • 2010.11.04 Thursday
  • 08:40
本日の肖像画は、当時ひじょうにめずらしかった社会派女流女詩人です。

彼女は、経歴的にも当時の社会では想像できない飛躍的なもので話題を呼びました。






Ann Yearsley

アン・イェースリー(1753年 -1806年)
又の名を「牛乳農家詩人」
有名な貴族作家ハンナ・モアによって見出されるまで、アンはブリストルの貧しい牛乳搾乳農家の労働者でした。

ハンナ・モアはアンに詩を書くように激励し、彼女が1785年に大きな巻の詩集を刊行するのを助けました。

本の成功は、2人の作家間にねたみの感情を起こし競争になりました。

当時のイギリスの港町ブリストルは、アフリカと英国の植民地の間の奴隷売買中の重要な拠点でした。

1788年には、アンが、奴隷売買を人道に反するとして抗議の詩を公表しました。

Francesca Cuzzoni Sandoni フランチェスカ・クゾーニ・サンドーニ

  • 2010.11.03 Wednesday
  • 10:13
見る今日も銅版画の肖像画の解説です。どんな人物なのか興味深々聞き耳を立てるですね。





フランチェスカ・クゾーニ・サンドーニ(1696年-1778年)とファウスティーナ・ボードーニ夫人(1770年-1781年)の2人は、イタリアのオペラ歌手でした。

1722には、ロンドンでもデビューし、熱狂的なファン集団を引きつけていきロンドンでもたちまち有名になりました。

1727年に、2人が同じステージに現われた時、お互いのファン軍団の対抗的なやじや暴言、暴行が発端となり、暴動へと発展しました。

狂気化した舞台は、存続を断念し、始まったばかりの2人の舞台も会期終了を待たずに打ち切りとなってしまいました。




ラッキーオペラファンのあなた〜、お部屋にいかかですか???

James Quin ジェームス・クィン

  • 2010.11.01 Monday
  • 09:44
見る今日も古い銅版画の肖像画の解説です。非常に危険銃な男の登場です。







ジェームズ・クィン
(1693年-1766年)
18世紀の英国の俳優。当時、彼の活躍する時代のロンドンの劇場は、大酒のみや気性の荒い俳優や短気な聴衆でいっぱいで非常に危険な場所でした。

その多くは剣を持参していました。1718年に、クィンは、俳優ボウエンと決闘の末、彼を殺傷してしましました。

彼は、有罪判決を下されたにもかかわらず、当時紳士の決闘は、故意の殺人とみなされず全く罰せられませんでした。

数年後には、彼の演技を批判した若い俳優とケンカになり、再度、剣で決闘をしました、結果は、再び相手の死で終わりました。

その後、クィンは、リンカーンズ・イン劇場で段階の上で酔っぱらうある貴族と口論し、それがもとになりその場にいたすべての人々を巻き込んだ結果、大暴動を引き起こしたそうです。

William Brereton ウィリアム・ブレアトン

  • 2010.10.31 Sunday
  • 09:38
見る古い銅版画の肖像画の解説です。

今日は、男性男です。
こちらでご紹介している肖像画も販売していますのでご希望の方は、御連絡ください。




ウィリアム・ブレアトン
William Brereton (1751年-1787年)

英国の俳優兼コメディアンでした。

彼は、大根役者で有名でした、しばしは、お酒の飲みすぎでの演技でセリフを忘れ舞台を台無しにしました。

アルコール中毒と精神病とで彼の俳優としてのキャリアを早くに終えてしまいました。

36歳になったとき、ホックストン精神病院にて死亡しました〜。

Olivia Serres オリヴィア・セレス

  • 2010.10.30 Saturday
  • 09:25
今日も続けて肖像画に描かれた女性の生涯についてのご紹介です。

一般に肖像画は、王室の方々や貴族やお金持ちなどが多いのですが、まれに同時のゴシップを賑わした一般人もいます。

銅版画の中の女性女の生涯も興味深いですね。




オリヴィア・セレス
(1772年-1834年)は、イギリスの詐欺師でした。

ペンキ屋の娘、オリヴィアは1791年に王家の専属の画家ジョン・トマス・セールと結婚しました。

そのうちにイギリスの名門貴族たちと交流を始めました。

彼女の結婚が破綻と借金地獄モゴモゴの末に終わった時、オリヴィアは、自らを

カンバーランドのオリーブ王女(王の兄弟の娘)であることを主張する手紙を書き、
キング・ジョージ3世に送りました。

1820年から1822年まで、オリヴィアは、自分の借金をカバーするために偽造した書類を使用して、ロンドンで贅沢三昧の生活を送りました。

しかし1822年には、逮捕され、負債者専門の牢獄に投獄されました。
長年の獄中生活に疲れきり、1834年に栄養失調で獄中にて死亡しました。困惑




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